―ずっとそばにいるから。
川上の声が頭の中でリピートしている。
それと同時に二人で過ごした日々も思いだす。
コードの羅列の中で交わしたキス。
初めて一緒に迎えた朝。
ミーティングで隣り合った席、密かに握り合った手の感触。
あたしの膝枕の上で眠る川上の柔らかい髪の感触。
仕事の隙間を縫って重ねた肌。
全部、全部思い出して、思い知らされる。
確かにあたしは川上を好きだった。
それは今も現在進行形で続いていること。
こんなに好きなのに、全部無かったことにできるの?
こんなに好きなのに、過去にできるの?
できるわけがない。
繋ぎとめる為にしがみついた仕事。何万行ものコードはまるであたしを川上か
ら離れられなくする鎖のようだ。
きっと、次に川上に抱き寄せられたらあたしは抗うことはできない。
すがり付いて、離れられないのは、きっと、あたしだ。
携帯のLEDがチカチカ点滅している。
川上だろうか。今日は姿を朝に見たきり。彼が現れることを期待している自分
に苦笑する。なんだかんだ言ったって、あたしはこうして待ってしまうんだ。
「そろそろ休憩しましょうか」
町内会のお知らせ、とタイトルの付いた架空の回覧板を作成していたじーちゃ
ん・ばーちゃん達に声をかける。気遣う振りして本当は、多分入っているだろ
う留守電をチェックしたいだけ。
はーい、とばらばらに声を上げて立ち上がったり、肩を回したり、銘々にくつ
ろぐ生徒さん達を横目に留守電を再生する。
しばしの雑音の後、聞こえたのは、か細い女性の声。
―雄介を、返してください。
一言だけで留守電は終わった。
ベッドの中で以外は一度も読んだことが無い、川上の名前。
切羽詰った声はあたしの息を止めるには十分だった。
この声には聞き覚えがある。
何度か足を運んだ総務部でいつも感じよく対応してくれたあの子だ。いつも大
変ですね、って微笑んでチョコレートをあたしにくれた。期限が過ぎた書類を
なんとか処理してくれたり、無理なお願いを通してもらったり、すごくお世話
になった。
あたしが、倒れた日に川上と一緒にいた女の子。
噂で持ちきりになった社内で、川上は何の否定もせずのらりくらりと質問の矢
をかわすだけ。苛立った女子社員に囲まれている姿を見かけたのはあたしが
退社する少し前のこと。
長い睫毛に、潤んだ目元。瑞々しい唇は辛いと歪んでいた。
あんなにあたしに親切にしてくれたのに、あたしはあの子を見放しにした。川
上との噂の真相を追究されて、追い詰められている姿を、あたしには関係ない
と傍観していた。
けれど、あの子はしっかり前を向いて返答していた。
―彼はあたしの、だから。
強く断言できるあの子を、妬ましく、うらやましく思った。
あたしにはそんな事言えない。陰でコソコソ視線を交わすくらいしかできない。
誰に聞かれてもあんな風に強く答えることはできない。
だからあたしは川上にろくに説明も別れ話もせずに逃げてきたんだ。あたしよ
り、あの子をきっと彼は想ってる。
あたしよりあの子を川上は大事にする。そんな風に考えて。
退社する最後の日、荷物整理の合間にお茶を飲もうと給湯室に向かう道すが
ら、川上を見かけた。
「おう」
なんでもないようにあたしに声をかけるあいつに、あたしはスッとお辞儀を返
した。
「明日付けで退社することになりました」
一瞬、固まったけど、他の人が気づくほどではない。けれどあたしはその一瞬
がほんの少しだけ嬉しかった。例え他に想う人がいても、大事にする人がいて
も、ちょっとでも動揺してくれたのかな、って。それだけで十分な気がしてい
た。
「そっか。まあ、ゆっくり休みな」
「はい。じゃあ、お元気で。・・・さようなら」
再度お辞儀をして、顔を上げたとき、川上はねぎらうようにあたしに微笑みか
けた。
最後だ。
そう思った。
これで全て終わり。
ああ、あたしは何を勘違いしていたんだろう。
きっと、川上はあたしがいなくなった事で少し取り乱してるだけだ。あんな
真っ直ぐで強くて、きれいな女の子を川上がなんとも思わないはずが無い。
あの子よりもあたしを大事にするわけが無い。
ああ、飛び込む前に気づいてよかった。
あたしがあの子に太刀打ちできるわけが無いんだから。また辛い目を見るとこ
ろだった。
安堵した同時に頬をつっとしずくが滑る。
できる、できないじゃない。
あたしは「しなくちゃいけない」んだ。
全部無かったことに。
全部過去に。
しなくちゃいけない。
呼び出したのはこの間の防波堤。静かな波がコンクリートに当たって、細かく
砕ける。鼻の奥がツンとするのはきっと、潮風のせいだ。
あたしはまた静かな生活に戻り、川上はあの子のところに戻る。それでめでた
し、めでたし。
「澤」
甘く響くように聞こえる彼の声。これくらいは無かったことにしなくてもいい
かな。思い出して、何度も何度もリピートできるように、心の奥に刻み付けて
おいてもいいかな。
「川上さん。もう、戻って」
あと数歩であたしに、触れる。その前に急いで告げてしまおう。離せなくなる
前に、返せなくなる前に、全てを終わりにしよう。
「・・・澤、何いってるんだ?」
ゆっくり息を吸って、吐いて。しっかり川上の目を見つめる。これくらいは覚
えていてもいいよね。あなたの目を、髪を、肩を。たまには思い出したりする
こともあるでしょ。
「戻るところがあなたにはあるでしょ。いつまでもここにいてもしょうがない
んだよ」
「・・・っ澤!」
掴まれた腕を引き寄せられる前に川上の胸に手を付いて、腕の長さだけ距離
を保つ。これ以上近寄ってはいけ
ない。
「どうして。どうしてそんなこと言うんだ。言ったよね?離れない、って。逃
がさない、って。忘れたんなら何度でも言うよ」
「やめて」
「やめないよ」
「お願いだから・・・」
「離れない」
「いや・・・」
「逃がさない!」
「もう・・・やめて・・・。」
胸に付いた手を無理矢理引かれて、気が付けば川上の腕の中に閉じ込められた。
背骨がギりっと痛むほどの強い力。
「どう言えば伝わる?どう言えば澤は俺のものになる?教えて。何でも言うか
ら。何でもするから」
にじむ視界をギュッと締め切って、渾身の力で川上を押し返す。
「もう、無理」
「・・・澤?」
「もう、無理なんだよ」
「無理なんかじゃない!」
「もう・・・あたしを解放してください・・・」
堪えきれずに零れ落ちた涙を無造作に手の甲でぬぐって、川上に背中を向ける。
あたしは、もう振り返らない。
さわ、って呼ばれたようなきがしたけど、それもきっと、気のせい。あたしは
川上と一緒にはもう歩けない。
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