付き合い始めたのは3年前。
その当時は、川上はまだあたしと同じでSEとして開発に携わっていた。
無精ヒゲもボサボサの髪も、煙草のフィルターを噛みしめながら黙々とモニ
ターに向かう姿も全部、全部近くで見ていた。よく一緒に徹夜して、明け方に
朝マックをどっちが買いに行くかでじゃんけんして。
仕事のことでは鬼だけど、話せば気さくで面倒見もよくて。眉目秀麗な見た目
からすると予想外なくらいとっつきやすくて、冗談もガンガン言うし、飄々と
している。近くにいて好きにならない方法なんてあたしは知らなかった。
けど、同じ職場で、同じチームで上手くいかなかったら気まずいし。何より、
好きになっても相手は社内一(狭い社内だけど)のモテ男。叶うはずがない、
って無理矢理抑え込んでいた。
それが抑えきれなくなったのは、徹夜明けの朝。
「ほら」
差し出されたのは、開発部部長専用の高級玉露。マグカップから優しい匂いが
漂っていた。内緒だぞ、といたずらっ子みたいに笑って、気分転換だ、と川上
はあたしを屋上に連れ出した。
大して高くは無いビルだから、周りの高層ビルに埋もれている。それでも、
ビルの隙間から、それからビルのガラスに反射して射す昇り始めの日の光が
眩しかった。
キン、と澄んだ空気。
目に焼き付ける朝陽。
ようやく終えた仕事の達成感。
あたしは知らずに溜息を零した。
それを遮ったのは、温かい感触。
1秒にも満たない時間あたしの唇に柔らかく触れて、離れた。
驚いて見開いたあたしの目に飛び込んだのは、真っ直ぐな眼差し。
―もう、我慢できそうもない。
低く囁いたあと、あたしの唇は今度は力強く塞がれた。
あたしは川上に捕まった。
「さーわーこー!いつまで寝てるの!早く起きて手伝いなさい!」
・・・まったく持って嫌な夢を見た。昨日、あんな風に川上と二人で話をした
りしたからだ。
自分の記憶をデリートしたくても、できないから困る。普段は忘れているけ
ど、ふとしたときに思い出したり夢に見たり。データなんて、欲しいときに
欲しいところだけ引っ張ってこれるからいいのであって、強制的に出されても
困るんだってば。
「あー・・・もー・・・・」
自己嫌悪に陥る・・・
「さーわーこ!いいかげんにしなさい!」
そんな暇も無いみたいだ。
実は家業は朝から忙しい。漁から帰ってきた漁師さんだったり、手の空いた
市場の職員だったり。お客さんは後を絶たない。
「はい、朝定お待ちどーさまー」
「はいはい、生姜焼きね、お待ちくださーい」
「毎度どうもー!」
次々来るお客さんを接客していく。ばあちゃんはレジの前にちょこんと座って
お会計係をしている。傍らには・・・
なぜこの男がいるんだ。
「ばあちゃん、この糠漬けマジでうまい!最高!惚れる!」
なんで川上がレジに入ってるんだ?なんで糠漬け食べてる?しかも手づかみ
で、切っていないきゅうり?っていうか、こいつ自覚あるのかな?滅茶苦茶、
漁業関係者の視線浴びてるけど。
「澤子ちゃん、お茶頂戴!」
「あ、はい、ただいま!」
突っ込みたい事は山のようにあるんだけど、そうも言ってられない。川上を
追い出す時間も惜しくて、そのまま放置することに決定。ばあちゃんは何だか
川上のことを気に入っているらしいし。
「ありがとうございましたー」
ようやく落ち着いた頃、さあ川上を追い出すぞ、と視線を向けるとヤツも立ち
上がった。すれ違いざまにポンとあたしの頭にタッチして、
「俺も行くわ。じゃあね」
それだけを言って出て行った。振り返った後姿は、営業係長の川上の物で。
ヤツは仕事をしにきて、それが終わったら帰っていくんだ、と実感した。
「っていうか、あなたなんでここにいるんですかね」
帰っていくんだ、と見送った男は夕方には戻ってきた。というか、あなたの戻
るところここじゃないと思うんですけど。
昨日見たのと同じ光景(ちなみに今日もご飯は大盛り)に頭を抱える。
「だって、ここの飯すっごいうまいんだもん」
「もん、って。宿は!?そこでも夕ご飯出るでしょ!」
「いや、素泊まりだし」
「じゃあ、他の店に行けばいいじゃない!」
「俺はばあちゃんの糠漬けの大ファンになったの」
「というか、いつまでいるのよ!さっさと帰れ!」
「飯途中なのに、帰るわけ無いでしょ」
「そうじゃなくて、いつ向こうに帰るのかって言ってるのよ!」
「んー、契約手こずっててねぇ・・・」
眉毛を下げてしょげて見せるけど、嘘でしょ、って感じ。もー、イライラする。
あたしの平穏な日々を、静かな日々を返して欲しい。
「まあまあ、さわちゃん、いけめんさんには優しくしなくちゃだめよ」
「めー、よー」
川上の為に大盛りにした糠漬けを持ってきたばあちゃんとそれにくっ付いてき
た姪っ子。デジャヴっすか・・・。
「ばあちゃんが優しくしてあげればいい。あたしは戻るから、後、よろしく」
すっときびすを返すあたしを呼び止める声が聞こえたけど、それも無視して
部屋に戻る。
畳に大の字になって寝転がってもイライラは止まらない。
グーの手を目に当てて、ギュッと目を閉じる。
思い出すな。
思い出すな。
思い出すな。
呪文のように念じて、何とか封印しようとする。
今更、だから。
今更、あのときのことを蒸し返しても時間は元に戻らない。
無かったことにはできない。
リセットは、できない。
←back
even if-top
next→