乱暴にかばんを床に投げつけた。
それだけじゃ気がすまなくて、テーブルの上に放置されていたマグカップを
持って振り上げた。今まで一度も抱いたことも無い破壊衝動。思いっきり床
に投げつけてやる。そう思って、手に力を入れた瞬間、
「それ、俺のだから」
背後から掴まれた腕に邪魔をするな、と振り返ると久しぶりに帰ってきた従兄
の姿があった。
「それ、結構気に入ってるんだよね。だから、投げるならこっち」
硬くしがみついている指を難なく外し、代わりに洗い籠に伏せられていた私の
マグカップを握らされる。
「思う存分どうぞ。あ、片付けは自分でしろよ」
手を離されて、ほら、と促された。
マグカップと無表情にこちらを傍観する従兄とを視線がさまよう。完全に気を
殺がれて、どうしようもなくて、脱力する。マグカップを握り締めてしゃがみ
こんだ私の頭の上で溜息が漏れた。
「結構、切羽詰ってるね。めずらしく」
どれ、せっかくだからコーヒーでも入れるかな、とこちらに向けた背中を眺め
て、本当に切羽詰まってるな、とぼんやりと思った。
―最初は、なんか上の空だな、って。何か悩んでるのかな、って思っていたん
ですけど。
―いくら待ってても元に戻らないから、もしかしたらって思って。
―気づいたのは、目線、かなー。
―周りの人は気づかないかもしれないけど、ずっと一緒にいたから、すぐに分
かったんです。
―すぐに戻ってくるって思っていたんですけど。
―いい加減我慢できなくて。
目の前の、陽太さんの彼女さんは、本当に困っちゃうな、って笑った。私には
嘘でも笑うなんて余裕はぜんぜん無かった。
バイト上がり、店の裏口に見つけた姿に心底びっくりした。次の瞬間何とか取
り繕って、陽太さん今日はお休みですよ、なんて親切そうな顔してみたけれど。
『今日はあなたに会いに来ました』
そんな風に言われたら取り繕うこともできなくなった。
―別に結婚しているわけでも無いし、そういう約束ちゃんとしてるってわけで
もないんだけど、
それまで穏やかな表情だった彼女さんは始めて視線を険しくした。
―陽太を返してください。
お話はそれだけです、彼女さんはそう言ってニッコリ笑った。完璧と思えるよ
うな笑顔。でも、膝の上で組まれた手がかすかに震えているのを見てしまった。
それでも彼女は強い。
大事な物を守る力を持っている。奪うことも離すことも壊すこともできなくて、
縋って、流されているだけの私とは違う。傷ついても、苦しくても傍にいて。
立ち向かって守って、真っ直ぐに進む。
勝ち負けじゃない。
けれど、やっぱり。
「・・・敵わないなぁ」
目の前に差し出されたマグカップ。湯気が目にしみて、ほろりと涙が零れた。
『ミツル最近、元気ないよな』
「そうかな。ちょっとレポート溜まってて、睡眠時間足りないからなー」
『ちょっとそっち行っていい?』
「あー、ごめん陽太さん。従兄いるから、ちょっと・・・」
『ああ、働き者の従兄さん?珍しいね、家にいるなんて』
「たまにはゆっくりしたいそうですよ。それに、あっちがいる時はセックス禁
止なものでね」
『・・・バカ。そんなつもりじゃないって』
「ん、冗談です。あ、ごめん充電切れそう」
『分かった。近いうちに行くから』
返事はせずに、携帯の電源を切る。
「ゆっくりしたいところだけど、もうでかけなきゃなんないんですけどね」
台所で優雅にコーヒーを飲んでいた従兄は言い訳に使われたことに眉をしか
める。
「人を言い訳に使わないでくだサイ」
物に八つ当たりするなんて珍しい、と事情聴取されたのは先週のことだ。
まずい、と思いながらも始まった付き合いは誰にも知られずに穏やかに続くか
と思われたが、彼女にばれて対決に発展。別れなければ、と思いつつも思い
切れずにズルズル。言葉にして説明すればなんて陳腐。
よくある話だ。
―恋愛で泥沼なんて珍しいな。適当なところでいつもは切り上げるのに、迷い
込んだか。
なんとも冷静な従兄のコメントは的を得ていた。
迷い込んだ。
まさにその通りだった。
「ミツルが悩むと、家の中がきれいになっていいね」
そんなことを言って従兄は出かけていった。
悩むと吹っ切れるまで掃除をする。それが私の癖だ。窓を磨くように悩みが
きれいになるわけでもないのに。
家中の窓を開け放って、水周り、窓、床・・・いたるところを掃除して回る。
夕暮れまで掃除を続けて、家中磨き上げたところでようやく手を止めた。
結論は出ている。
好きな人を誰かと共有するなんてできない。
別れるか、別れてもらうか。
なのに気持ちは言うことを聞かず、行ったり来たりでぐるぐる回る。
別れるには気持ちが大きくなりすぎている。
別れてもらうのは彼女と陽太さんの繋がりが強すぎて、そうしてもらえるなん
てとてもじゃないけれど思えない。
冷えた空気に自室の窓を閉めたとき、ようやく異変に気づいた。
バサバサと羽音。
時折止まっては苦しげに鳴く。
自室に迷い込んだのはツバメだった。
網なんて無い。素手で捕まえることもできず、負ってもぐるぐる狭い室内を
回るだけで、私は途方に暮れた。
外に出さなければならない。窓を開けてそちらに追いやろうとしても、するり
とかわされる。
外を飛び回るツバメは迷い無く優雅だった。高いところからいとも簡単に飛び
立ち、旋回してみせて。
止まること無くまた上昇して。
それが一度見知らぬところに飛び込めば、迷っていったり来たり。それから苦
しげに声をあげるだけで。
まるで今の私だ。足掻いても足掻いても行くべきところへ行けない。羽が折れ
るのを覚悟して果敢に飛び進む
こともできない。
どうしたらいいの?
見上げるツバメが涙で滲んだ。
「俺、もうここに来ないほうがいいのかな」
いつもの縁側で、いつに無く陽太さんは俯いた。
たまにはゆっくりする、そう断言した従兄は引きこもりに近いくらい家にいる
ようになった。家以外では会わない様にしていた私達は目に見えて会う機会が
減った。
最初は遠慮していた陽太さんもだんだん焦れてきて。ずるい手だとは思うけ
ど、このまま放置して、みるみる終わっていかないかな、と思わないでもなか
った。
けれど、きちんと決着をつける、そう決めたらから。
ひらりと空を飛ぶツバメを眺めながら陽太さんに連絡を入れた。
連絡の後それ程経たずに現れた陽太さんは何かを感じ取ったのか、いつもの
明るさは陰を潜め、躊躇いがちに伸ばされた手は結局は私に触れずに下ろされた。
「俺、従兄さんに挨拶しようかな」
何の気なしに言った言葉。思わず噴出してしまった。
「・・・なんて?」
「いや、だから、」
「彼女別にいるけど付き合ってます、って?」
彼の身体が凍りついたのが分かった。
笑いの後にこみ上げてきたのは二人の関係を明確にする鋭い言葉。
「ミツルは二番目です、って言うの?」
今も目に焼きついている。
一晩、外に逃がしてやることも、外に出て行くこともできずにツバメと一緒に
まんじりと朝を迎えた。
寒さに耐え切れず閉めていた窓を朝陽が上り始めた頃、再度開け放った。
その途端、一晩行ったり来たりを繰り返したのが嘘のように、迷い無く外へ飛
び出した。
薄明かりの空をひらり、ひらりと飛んでいく姿。
それを目にした瞬間、なぜか気持ちがようやく定まった気がした。
私はあんな風に飛べないけれど。
でも、もう迷わない。
「そろそろ終わりにしよう」
いつかは言わなくてはとずっと思っていた言葉をようやく吐き出した。心に
抱えていた時の重さが嘘だったかのように、それはずいぶんと軽く響いた。
「・・・ミツル?」
弾かれたように顔を上げた陽太さんの目をしっかりと見つめる。一瞬の躊躇い
も見逃さない為に。
「一時の気の迷い、にしては長すぎだと思う」
「気の迷いなんかじゃ、」
「じゃあ、私を選ぶ?」
「・・・っ」
「ひどいなぁ・・・」
「ミツル、俺は、」
「私を選ぶって即答してくれるかなーって少しは期待したんだけどねぇ・・・」
それでも、私を選ぶって言ってくれたとしても、一瞬でも彼が躊躇うようなら
迷わず身を引こうって決めていた。躊躇いどころか、ここまで狼狽するとは思
わなかった。
「もう、終わりにしよう」
帰りを促すようなことを言いつつも、いつも引き止めたくて仕方なかった。そ
の人の背中が遠ざかる。
こうやって彼を見送ることもこれで最後になる。もったいないからしっかり
記憶に焼き付けておきたいのに、視界が霞んでさっぱりうまくいかない。
引き裂かれるくらいに痛む胸が血を流すように、後から後から涙が零れる。
「ミツル、もったいないから泣くの止めたら?」
いつの間にか隣に並んだ肩に頭を引き寄せられた。
滲んだ涙がペールブルーのシャツに見る見る吸い込まれていく。
「二股最低男の為に泣くなんてもったいないだろ」
あんまりな言い様に笑いがこみ上げてくる。
でも、でも。
「・・・でも、好きだったの」
そりゃあしょうがねーなぁ、と頭上から響く笑い声。
「ミツル、ツバメが飛んでるよ」
肩越しに見上げた。
シャツに涙を吸い取られて視界はすっきりクリアだった。
その先にいつかのツバメが迷い無く飛んでいく姿が見えた。
高く、高くツバメは舞い上がり、小さくなって、消えた。
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