「家の軒先にツバメが巣を作ったんです」
始まりはそんな世間話だった。
陽太さんは、バイト先の先輩で二つ年上。明るくて気さくで、そこにいるだけ
で周りが元気になるような人だった。
常連のお客さんにも、バイト仲間にも人気者。しょっちゅう女子高生とかOLの
お姉さんとかにアドレスを聞かれたり、本気でして告白されたりしていた。
ある日たまたま重なった休憩時間、休憩室で一緒になった時に、何の気なしに
話した世間話。軽く流されるような内容に彼は意外にも食いついた。
「見てみたい」
「え?」
窓から射す西日に照らされて茶色に透けた髪で、向日葵みたいに笑った。
「俺、ずっとマンション暮らしだから、ツバメの巣なんて見たこと無いんだよね」
「ツバメ自体まじまじ見たこと無いし」
「見てみたいなぁ」
そう言って少し遠くを見るような横顔に自然と言葉が零れた。
「・・・見に来ますか?」
ハッとしたときには彼が私の家に遊びに来ることが決まっていた。その時には
彼に大事な彼女がいる事を思い出していた。
人気者の彼を個人的に誘わない、というのはバイト先の女の子の間では暗黙
のルールだった。彼がシフトで入っているとき、親睦会を兼ねての飲み会の
とき、惚気て口元を緩ませる彼を何度も見ていた。それに、店内で彼を待つ
彼女の姿も何度も見かけた。子供みたいに無邪気に笑う彼に、そっと寄り添う
彼女。普通ならば、彼氏のバイト先に頻繁に顔を出せば何かと周りが気を
遣い、そのうちに疎ましくなるものなのに。二人の親密な空気は周りを
和ませるような、見ていて幸せになれるような気がした。
―理想のカップルだよね。
厨房に入ってる女の子は密かに彼に思いを寄せていた。彼女がいるって知っ
てても諦めきれない、なんて涙ながらに言っていたけど、二人の姿を何度も
見るうちに敵わないな、って笑って思い切る覚悟を決めた。
それくらい二人のつながりは固くて、確かなものだった。
「じゃあ、他の人にも声かけますか」
他の面子にも声をかければ特に問題は無いだろう、そう思ってした提案は
あっけなく却下された。
「えー、他の奴らも来たらそのまま宅飲みになるよ?先週も飲んだばっかり
だし、勘弁だな」
祖母の家を譲り受けた従兄の平屋に転がり込んだのは大学に入学してから。
二人暮らしで調度いい、大して広くも無い平屋に血気盛んな若者が集って、
飲み会。想像しただけで地獄絵図だ。
「なんだよ、ミツルは俺と二人だけじゃ嫌なのかよ」
ふてくされたように机にうな垂れる彼に、だって彼女がとか、二人きりは
ちょっと、とか頭の中でグルグル言い訳を考えていると、彼の大きな声が
思考をすっぱり遮った。
「とにかく!決まり、だから。今度の休みな」
強引とも取れる言葉に私は何も返せなかった。
陽太さんと彼女さんは幼馴染らしい。
子供の頃からずっと一緒で離れることなんて考えたこともなかった、らしい。
一緒に駆け回って、転んで、喧嘩して、幼い頃は兄弟みたいだった、って
陽太さんは笑った。成長して、お互いを思う気持ちが家族的な物から恋愛
感情に変わるのは疑問に思うことも無く、自然流れだった、っていつかの
飲み会の時に言っていた。
学生ばかりがバイトで集まるカフェレストランは横の繋がりが強固で、頻繁に
時間を見つけては親睦会と称して飲んだくれていた。アルコールにフワフワ
した頭で幾度となく聞かされた惚気話。
割り込むつもりなんて無かったのに。
壊すつもりももちろん、無かった。
けれど、気づけば私の気持ちは落下するように陽太さんに傾いていた。
「ミツル」
縁側で寝そべりながら、伸ばした手で陽太さんは私の髪を弄ぶ。肩下まで
伸ばされた髪を摘んで、引っ張って、長い指にくるくる巻きつけて。
気が付いたらいつもそうされている。
「はい?」
「ミツル」
「はーい?」
「ミツル・・・」
「だからなんですかって」
ずっと見つめていたツバメの巣から視線を陽太さんに向けると、大きな目が
ギュッと細められる。
「ようやくこっち見た」
くすぐったい言葉に、心が甘いもので満たされるような気持ちになる。
それと同時にこみ上げてくる苦いもの。
彼は、私の物じゃない。
ツバメは古い巣を修繕して住み着くことがあるらしい。あれから一年近くが
過ぎ、去年できた巣にはまたつがいのツバメが住み着いた。
昨年は軒先に泥みたいな物が着いてる、と気づいてから、みるみるうちに巣の
形は出来上がっていった。
あっという間に、と言うのがふさわしいくらい。
それと同じくらいあっという間に陽太さんと私は親密になっていった。もう一年
も前のことになる。
その頃、同居人の従兄は殆ど家に帰ることがなく、ほぼ一人暮らしの私の家に
陽太さんは初めての来訪から度々訪れるようになった。
バイトの帰りだったり、大学の帰りだったり、予定の無い時だったり。何の疑問
を抱かせることも無く、縁側に座ったり、寝転んだり。気づいたら、いる。
野良猫がふらっと来て日向ぼっこしている、それくらいの自然さだったと
思う。
短大に通う彼女さんの就職活動が忙しくて、時間がいつもよりあったって言う
のもあるのかもしれない。
女の子の部屋に頻繁に通う、それが周りからどう思われるかなんて考えるまで
もなく明らかだった。
だから、やましい気持ちがあっても無くても、ふたりで会っていることは誰に
も言わなかった。
バイト先では単なる同僚の顔をして。
二人きりで過ごす時間は加速度を増して増えていく。
誰にも気づかれず、見咎められず、ひっそりと重なる時間。
隣り合う距離がどんどん近づいていって。
初めて唇が重なったのは蝉がうるさいくらい鳴く暑い日だった。
「ほら、そろそろ帰らないと」
「えー、もうちょっと。まだ帰りたくない」
休講になった午後の時間。バイトもなくて、どうしようかと迷ったところで
タイミングよく陽太さんから連絡が入った。
明日期限のレポートがあるけど、まだやる気が出ないから現実逃避させて、
そんな内容で。
言ったとおり陽太さんは始終縁側に寝そべり、ツバメの巣を見上げていた。
まさに現実逃避。
たまに思い出したように私にキスを落として。そうしているうちに、日が傾き、
もう空は紫色になっている。
「もうちょっと、一緒にいよう」
本当は心の奥で願っていたことが、彼の口から出て、心臓が止まるかと思った。
いつの頃からか私は欲張りになっていった。
そばにいたい。
もっと長く一緒にいたい。
誰にも渡したくない。
彼女さんには返さない。
それと同時に迷ってもいた。
バイト先に現れて見かける彼女さんの姿。
仕事の合間に繰り出される雑談の話題に上がる彼女さんの名前。
見るたび、聞くたび思うこと。
続けられない。
別れたい。
もう一緒にいられない。
行ったり来たり。グルグル同じところを回って。どこに向かえばいいのか分
からない。
分からないから、もうちょっと。
あと少し。
そうやってズルズルと私は陽太さんと離れられないでいた。
「ミツル?」
膝の上で脱力していた手を熱くて骨ばった手が包み込む。その手の熱さに、
強張っていた身体の力がじんわりと抜けていく。手を反転させて、彼の指に
私のそれを絡ませる。ギュッと力を込めて。いつかは手放さなければならない
のかもしれない、なんて思うけれど。けれど、今だけは繋がっていたい。
その思いを籠めて。
「ミツル」
「ミツル、」
「ミツル」
俯く私の耳元で彼が囁く。
「ミツル。もうちょっと、一緒にいて」
離さない、というように力をこめる腕の中で、私は行ったり来たりグルグル
同じところをまた回っていた。
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