日中降り続いた雨は日が暮れるころには上がっていた。
久しぶりに散歩に行ける。
涼子は早々に夕食を終えて、浮き足立った気持ちでいつもの時間を待った。
隣からいつもは聞こえてくる何かしらの音が聞こえないような気はしていた。
帰宅して、階段を上がってくる
足音だったり、ドアや窓を開け閉めする音が。しかし、涼子はそれは気にしな
いようにしていた。きっといつもの時間にドアを開ければ、いつものように隣
のドアも開くだろう、そんな風に思っていた。いや、思いたかったのかもしれ
ない。
もう五日もの間、涼子は散歩に出ていなかった。ぐずついた天気が続き、始め
は傘を差してまで出歩くことはないか、と思っていた。けれど、降り続く雨の
せいでだんだんと涼子の内心は焦れていった。それは散歩に出かけられない
から、だけでは無かった。しかし本当の理由を深く考えようとはしなかった。
進まないレポートを諦めて投げ出した頃、ようやく散歩の時間になった。さあ、
行くぞ、とビーチサンダルを突っ掛けて玄関ドアを開ける。
しかし、何かが足りない。
いつもなら数秒と経たずに隣のドアも開くはずが、じっと見つめた先のドアは
ピクリともしなかった。
玄関ドアのすぐ横、お隣の台所に面した窓は真っ暗で、人の気配がしない。
恐る恐るドアの前に立つが、やはりその奥からは物音一つしない。
涼子と正明の交流は散歩以外はまったく無いと言ってよかった。わざとそうし
たわけではないが、学内では見かけてもそれだけ。近寄って話をするようなこ
とも殆ど無かった。
散歩から帰って、じゃあおやすみ、とそれぞれの部屋に戻ればそれっきり。
だから涼子は正明の部屋のドアを前に躊躇した。玄関チャイムに指を伸ばして
は引っ込める。そんな事を数度繰り返して、溜息をついた。
それから肩を落として、とぼとぼと玄関を下り始める。
チャイムを押して、正明がもし出てきたとして、何を言えばいいのか涼子には
さっぱり分からなかった。
もともと捨てられた子犬を心配するような親切心で付き合ってくれていただ
けだ。親切心を親密さと勘違いしてはいけない。そもそも約束などしていない
のだから。
久しぶりに歩きだした夜道は、暗いばかりでどこか寂しかった。
機嫌の悪さを隠そうともせず、その理由を自ら言い出すことも無く、周囲に尋
ねる機会を与えることも無い、その状況に耐えかねた友人に正明は捕まった。
最終コマが終わったとほぼ同時に数人の友人に囲まれ、強制連行された先は
大学近くの居酒屋。まだ日も暮れないうちから次々と杯を重ね、気が付けば
正明の周りには死屍累々とはこのことか、と言わんばかりの酔っ払いの山が
できていた。
飲み会に連行されては最後まで生き残り、潰れた友人達をタクシーに詰め込
んで送還したり、介抱したりするのが正明の常だった。不機嫌の理由を聞き
出して、気分を盛り上げようとしてくれたのだろうけれど、いつもの通りに
なるくらいだったら放っておいて欲しかった、というのが正明の正直な気持ちだ。
トイレに経った際にふと見た腕時計は、涼子と散歩に出かけるいつもの時間を
指していた。
そして、設えられた小さな窓から見上げた空は久しぶりに月が見えていた。
潰れた連中をまとめてタクシーに放り込んで、自力で帰れそうな奴らを見送り、
さて自分も帰るか、と思えばもう一人残っていた。バイト上がりに少しだけ顔
を出した同じ学部の女友達だった。
明るくサバサバした性格で、野郎ばっかりの集まりでも違和感無く溶け込み、
ともすれば異性ということを忘れてしまいそうになるような子だった。しかし、
いくら普段男扱いしているからといってさすがに、じゃあお疲れ、とそのまま
一人で帰らせるのも心苦しい。自然と正明は彼女を連れて最寄駅に向かう道
を歩き出した。
誰それの浮気がばれて三つ巴で修羅場になったとか、あいつの気になってい
る子がどこどこでバイトしていて日参しているだの、と当たり障りの無い
噂話をしていたら、唐突に切り出された。
「で?」
「・・・で、って?」
「あんたはどうしてご機嫌ナナメだったの?」
「あー・・・」
不機嫌な理由を突っ込みたくても突っ込めなくて、飲ませて吐き出させて
しまおうと目論んで見事に失敗していた連中に見習って欲しいと思うほど、
するりと核心を突いて来る。しかし、核心を突かれたところでなんと答えて
いいのやら、正明には説明する言葉が無かった。
「失恋?二股?彼女が浮気?それともー・・・」
「いやいや、彼女もいないので浮気をされることも、二股かけることもできな
いんだって」
「じゃ、好きな子にどこから手を出していいのか考えあぐねて、煮詰まった、
とか?」
その言葉で過ぎった姿は小柄なあの子。
つい昼間までは『娘はやらん!』と、頑固親父の心持だった、はずなのに。
はずなのに、はずなのに、はずなのに・・・と正明の足はついに止まった。
「当たり?」
ハッと顔を上げれば、ニヤニヤと笑う好奇心丸出しの顔があった。
慌てて、違う、と否定しようとしたところで女友達の肩越し、大きな瞳をいつ
もの数倍大きく見開いた涼子の姿があった。
「「あ」」
咄嗟に出た声は女友達を挟んでこちら側とあちら側で重なり、久しぶりに見か
けた姿に自然と鼓動が速まった。
その瞬間、涼子の姿しか目に入らなくなり、すばやく駆け寄り無意識のまま手
を伸ばす。
その手が涼子に届く前に、二人の空気を壊したのは、すっかり彼方に忘れ去
られていた女友達だった。
「正明?」
弾かれたように顔を上げ、正明を見上げ、その肩越しにいる女の人を見つめ、
涼子の目は見る見るうちに苦しげに細められ、ついには俯いた。次の瞬間に
は正明には背中を向けていた。
かすれた小さな声で彼女が、お邪魔しました、と呟いたのが聞こえた。
パタパタと遠ざかっていく足音と、小さくなる背中を呆然と正明は見つめてい
た。
なぜ涼子が苦しげだったのか。
彼女が何を邪魔したというのか。
正明には見当もつかなかった。
「あらー、あれは完全に誤解してるなぁ」
気づけば隣で女友達も同じように涼子を見送っている。
誤解。何を?
「で、あんたはここで何をしてるの?いいの?行っちゃうよ?」
バン、と叩かれた背中の勢いのまま正明は走り出した。
少し先の十字路を曲がって消えた後姿を追って。
一人で始めた散歩は、今まで感じたことも無かったくらいつまらなかった。
街灯が少ない路地は薄暗く、不気味に感じた。犬のモリゾウさんも、三毛猫の
スミコさんも涼子の気分を盛り立ててはくれなかった。
誰もいない自分の右側を寂しく思った。気づけば涼子は隣に正明がいることが
当たり前になっていた。
だから駅へと向かう比較的人通りのある道に出たとき、見つけた正明にまずこ
み上げてきたのは安堵だった。
そのすぐ後に訪れたのは、嬉しいという気持ち。
駆け寄る正明があと少しで辿り着く、そう思った瞬間冷水を浴びせられたかの
ように固まった。
「正明?」
彼の肩越しに見えたスラリと背の高い女性。
聞いたことは無かったし、考えたことも無かった。
いつも散歩に付き合ってくれるから、毎晩でも付き合ってくれたから、正明に
付き合っている人がいるだなんて思いもしなかった。
なぜ正明に会えて安堵したのか、嬉しかったのか。降り続く雨に焦れたのか。
その理由を涼子はその時、自覚した。
気が付けば涼子は正明を好きになっていたのだ。
それを自覚した瞬間、見つけた正明と共に歩く女性に打ち砕かれて、涼子は
逃げることしかできなかった。
頑固親父の心持、なんて嘘だ。
放っておけないのはなぜか。
どうして今自分は彼女を追いかけているのか。
正明には分かりすぎるほど分かっていた。
散歩に行きたかったんじゃない。彼女と一緒にいたかった。
始めは単なるおせっかい。それが今ではなくてはならないほど大事な時間に
なっていた。
「待って」
走って走ってようやく捕まえた。そう思ったのに、掴んだ手を振り払おうとす
る力は思いのほか強かった。
逃がさない、と籠めた力で涼子の細い腕に正明の手は食い込んだ。
「は、なして!」
「嫌だよ」
「・・・はなして下さい!」
「離したら逃げるだろ」
両手で涼子の両腕を掴む。振り払おうとしてもビクとも動かないほどの力で
拘束されて、涼子はようやく
抵抗をやめた。それでもせめてもの抵抗、と俯いたままの顔を上げることは無
かった。
「なんで、なんで追いかけてくるんですか」
「・・・なんで、って逃げるから」
「彼女さん、置いてきてどうするんですか」
「いや、」
「誤解されますよ」
「だから、」
「単にお隣ってだけなんだから、放っておいてください」
見下ろす小さな肩が震えているように正明には見えた。込上げた欲望に逆らう
ことなく、正明は涼子の肩を自分の胸に引き寄せた。それでもその手つきはど
こか恐る恐るだった。
「っ、だから!彼女がいるのに、何であたしにこんなことするんですか・・・」
一瞬の抵抗の後、それはすぐに止んだ。それをいいことにさらに力を入れてみ
ると、身体を預けるようにする涼子にさらに気をよくして、正明はすっかり涼
子を抱きこんでしまった。
「彼女は、いないよ。さっきのは友達。なんでもない」
「うそ」
「うそじゃないです。それより、」
そこで言葉を切って、正明は涼子から身体を離した。二人の間にできた隙間
がさびしくて、涼子はようやく正明を見上げる。それも恨めしげに。
その目線に正明は苦笑して、それでも伝えなければと言葉を続ける。
「散歩、一緒に行けなくてごめん」
「・・・別に、約束してませんし」
「じゃあ、約束しよう」
さらに正明は身体の距離を開けて、前かがみに涼子の目を覗き込んだ。
「明日も、明後日も、明々後日も、その先もずっと一緒に散歩しよう」
「・・・ずっと?」
「ずっと」
「ずっと、ですか?」
「ずっと、です」
―はい。
涼子が小さく返事をして、二人は歩き出した。どちらともなく、手を繋いで。
ズル。
ペタン。
ズル。
ペタン。
並んで歩く、正明の雪駄と涼子の履くビーチサンダルの足音だけが人気の無
い通りに響く。
「あ、モリゾウさん、もう寝てる」
正明が指差す方を見れば、生垣の隙間から見える古ぼけた犬小屋から、これ
また古ぼけたセントバーナードが前足に大きな頭を乗せてぐっすり眠る姿が
見える。
「あ、スミコさん」
指差す方を見れば、電信柱の陰で毛繕いをする三毛猫がいた。ふと横を見る
と、正明はまたしても右頬を空いた手でさすっている。
それがおかしくて涼子はくすくすと笑う。
笑い声に初めて、自分の無意識の行動に気づき、正明はばつが悪そうに苦笑
する。
ふと見上げた先の月は今日もきれいだ。
涼子と正明は月に向かって再び歩き出した。
今日もしっかりと手を繋いで。
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