三十センチほどの間隔を空けて並び歩く横顔をチラリと涼子は見上げる。
ズル。
ペタン。
ズル。
ペタン。
並んで歩く、正明の雪駄と涼子の履くビーチサンダルの足音だけが人気の無
い通りに響く。
気づけばこうして二人で歩く事がすっかり日常になっている。
全ては正明の過剰なまでの親切心とおせっかいで始まったことで、始めは心
底鬱陶しいと涼子は思っていたのに。
「あ、モリゾウさん、もう寝てる」
正明が指差す方を見れば、生垣の隙間から見える古ぼけた犬小屋から、これ
また古ぼけたセントバーナードが前足に大きな頭を乗せてぐっすり眠る姿が見
える。この老犬の名前が『モリゾウさん』というのだということを涼子に教え
てくれたのも隣の男だ。
「気持ち良さそうですね」
「うん。そうだね」
二人でなんとなく、ほんわかした気持ちになった。そしてまた前を見て歩き
出す。夕立の後の夜の空気は少し涼しくて、普段より緑の匂いが濃い気がし
た。そして今日も月がきれいだ。
涼子の趣味は夜の散歩だ。
それは受験勉強期間中の運動不足解消から始まり、大学に入学して一人暮ら
しを始めた今も続いている。
実家は田んぼに囲まれた田舎の一軒屋だった。近所にいるのは全て顔見知り
で、さらに言えば涼子がおしめをしている時から知っているような人たち
ばかり。だから町内を一周する事に何の危険も感じたことが無かった。
その為、大学近くのアパートに移り住んだ時も、涼子は深く考えずに趣味を
続けた。そこは涼子が生まれ育った場所より遥かに都会で、繁華街も近くに
あるというのに。
特に危ない目に遭うことも、恐怖心を煽られるようなこともなく、涼子は
日々夜の散歩に出かけた。
それを眺めて冷や冷やしていた男が一人。正明だった。
アパートの隣室に4月から住み始めたのは、正明と同じ大学の後輩の女の子。
律儀に引越し蕎麦を持って挨拶に来た女の子は、小さな声でよろしくお願いし
ます、とペコンと頭を下げた。
それに併せて、頬の当たりで弧を描く髪もふわりと揺れた。おとなしそうな子
だな、そう思った。それだけだった。
籍を置く学部や学年なんて当たり障りの無いことを話した後は、特に話題も無
く、こちらこそよろしく、
と同じくペコンと頭を下げてそれで終わり。
特に接点も無いのでキャンパスで見かけても隣の部屋の子がいる、と認識
するくらい。
始めは気にも留めなかった。しかし、引越し早々から、毎夜部屋を出て行く音
が隣からする。安普請のアパートだから、扉の開け閉めもすぐに分かる。鉄筋
の階段をタンタンと下りていく。そして一時間ほどで戻ってくる。
始めはアパートから歩いて数分のコンビニにでも行って立ち読みでもして帰っ
てくるのか、近所に住む友人の家にでも遊びに行っているのかと思っていた。
それはよほどの大雨が降らない限りはほぼ毎日続いた。そうなると訝しく思う
のも当然だ、と正明は思う。
どこに行っているかは知らないが、女の子の夜歩きなんて危険じゃないのか?
と心配にすらなった。
ある日のサークルの飲み会の帰り道、正明の部屋で飲みなおす事になり、
最寄のコンビニで飲み物を調達していた。
そこをガラス越しに見つけた歩く女の子の姿。
フワリと揺れる髪。真っ直ぐ伸びた背筋。小柄なシルエット。それは隣の部屋
のあの女の子だった。
それを見た近所に住む友人がポツリと言った。
『あのこ毎晩散歩してるよなー。危なくないのかね』
そうして正明は彼女の夜の外出が散歩なのだと初めて知ることとなった。
学食のテラス席は春が過ぎる頃になると混み合う。エアコンも置いていない
食堂内は熱気と食べ物の匂いがこもり、居心地が悪い。涼子も友人と木陰の
席を陣取っていた。通り抜ける風のお陰ですこぶる快適、と涼子は紙コップ
のコーヒーに口を付けた。
すると友人が、ほら、と中庭を指差す。
見れば、正明が大量の本を抱えてヨロヨロと歩いていく。もやしっ子とまで
は行かないが、筋骨隆々というわけ
ではない細身の身体にはちょっとその本の量は多すぎるのでは無いか、と思
えた。顎の下まで積みあがった本をよいしょ、と持ち直そうとして黒縁の眼鏡
がずり落ちる。その隣を一緒に歩くのは涼子達の母親と同じくらいの年齢の司
書さん。こちらは正明の三分の一程の本を抱えている。
「あれが学内一の『イイヒト』だよ」
へーあれが、と別の友人が応じる。そしてそのままある意味伝説と化した、
正明の親切エピソードで盛り上がり始めた。
運動部の部室の軒先にできた蜂の巣を頼まれて断れず撤去した、とか。
学内で捨てられた子犬六匹を全て一人で面倒を見て、飼い主を見つけて引き
渡した、とか。
単位を落とす寸前の友人に完成したレポートをそっくり差し出して、自分が
単位を落としそうになった、とか。
拝むと厄介事をそっくりそのまま引き受けてくれる、とか。
それは親切というよりは、体よく使われているだけだろう、と涼子は内心突っ
込みを入れる。そして、ふと思う。
毎晩正明が涼子の散歩に付き合ってくれるのは、子犬を心配したのと同じ
気持ちなのだろうか、と。
中庭を横切って図書館へと向かう正明の背中を見て涼子は呟く。
――散歩に付き合ってくれ、なんて頼んでないのに。
その言葉は何だか拗ねた響きを持っていた。
いつもの時間、いつものように玄関を開けた。すると少し先で同じようにドア
を開け、慌てたように隣の人が飛び出してきた。
「あのさ、」
「・・・はい?」
「やっぱり、危ないと思うんだよね」
うん、と一人頷く隣の人の姿を見て、何をいきなり、と涼子は一歩引いた。
「女の子の夜の一人歩きは危ないと思う」
「そ・・・うですか?」
何を言いたいのか、自分に何の用事があるのか分からず、隣人の姿を眺める。
こぶしを握り締めて、うん、とまた一つ頷く。引越しの挨拶以来まともに顔を
合わせたことも無い。だから、こんな風に突然話しかけられて用件の分からな
いことを言われても、と涼子はまた一歩引く。
「そうなんですよ」
「はぁ・・・」
「そうなんです!」
ズイっと、涼子に一歩近づく正明。涼子はこの人は、どうしたいのだろう、と
訳が分からず、さらに一歩下がる。
「じゃあ、行きましょう」
突然そう言うと、くるり、と背中を見せて正明は階段を下り始める。行くって
どこへ・・・と呆然とその背中を見送っていると、その人は再びくるりと涼子
の方へ振り返り、首をかしげる。
「?行かないんですか」
「いやー・・・」
「ほら、行こう」
にこりと浮かんだ笑顔につられるように、涼子は歩き出した。
この日から、涼子の夜の散歩には必ず正明が付き添うようになった。
月が雲に半分隠れていく。
明日は雨かな、と涼子がぼんやりと考えていると突然腕を引っ張られた。
そのまま電柱の陰へ引きずり込まれる。
「なっ・・・」
何をするんですか、と言い切る前に、シーっと人差し指を自身の口元に当てて
正明に黙るように指示される。
何なんだ、と憮然とする涼子にほら、と正明は指差して視線を促した。
見ればそこには、少し先、電信柱の陰で寛ぐ三毛猫の姿が見えた。
「彼女はスミコさん」
「スミコさん?」
「そう。隅っこが好きだから、スミコさん」
見事に安直なネーミングに涼子は噴出しそうになる。
「でも気をつけてね。スミコさんは人間嫌いだから、機嫌の悪いときに近づく
と『シャー!』って引っかかれるよ」
そう言いながら、正明は右頬をさする。それを見て、涼子はもしかして、と
思
い当たる。
「先輩は機嫌の悪いときに当たって右頬をやられたんですね」
「え?何で知ってるの?」
だって、と笑って涼子は正明の手を指差す。すると、あ、と正明は慌てて手を
下ろす。
その慌てぶりが面白くて、涼子はさらに笑う。はじめは照れくさそうにしてい
た正明も、声を殺して笑う涼子に釣られて思わず笑ってしまう。
そうして二人はくすくすと密かな笑い声を上げながら、再び歩き出した。
正明の機嫌はすこぶる悪かった。
友人からノートを見せて欲しいと頼まれれば、何の為に講義に出ていたのかと
すげなく断り、代返に関してはいつもは快く引き受けるはずが、今日に限って
は『嫌だ』の一言で拒否。
大学入学依頼初めて見せる眉間の皴に、三時限目が終わるころには周囲
には人が寄り付かなくなっていた。
遠巻きに正明を眺める友人たちは、何がそこまで彼の機嫌を悪くするのか、
いろいろと考えてみるがどうにも思い当たることが無く困り果てていた。
原因は二つ。
ここ数日、日夜降り続く雨と、友人の何気ない一言。
――あの子、結構かわいいよなー。彼氏いたりすんのかなぁ。
それは、中庭を見下ろす窓辺での言葉で、そう話した友人の目線の先には
涼子の姿があった。
一見地味だが、よくよく見ればそこそこかわいい、というのがその場での友人
たちの評価だった。
よくよく見なくてもかわいい、というのが正明の正直な気持ちだった。
ふわふわと揺れる髪に、小柄な身体。
正明と目線を合わそうとすると自然と上目遣いになる。黒目がちの目が小動物
みたいだ、と常々正明は思っている。
庇護欲をそそる、というか、保護欲をかきたてる、というか。なんにしても正明
としては涼子は放っておけない存在なのだ。
それを横から現れて、かわいいだの、彼氏はいないのかだのと、のたまう友人
に正明は怒り心頭。
気持ちは『娘は嫁にやらん!』と怒れる父親のそれと同じようなものだと正明
は思っていた。
それに雨のおかげで涼子の夜の散歩はことごとく中止となっている。
口に出して涼子に伝えたことは無いが、夜の散歩は正明の中ではなくてはなら
ない時間となっていた。
二人でのんびりと月を見ながら歩き、民家の庭を覗いては、あの花が咲いてい
る、あの犬が寝ている、と他愛も無いことを話しているだけ。始めはおせっか
いで散歩に付き合うことにしただけだった。
しかし今ではそれが正明を
幸せな気分にさせるのだ。
「・・・はぁ」
ついに正明は大きなため息をこぼし、講義室の机に突っ伏す。
『涼子と、散歩に行きたい』
正明の心はこのことだけに占められていた。
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