シャツとネクタイは昨日と違う物だけど、スーツは一緒。教官室の椅子にかけ
られたジャケットからは夜を思わせる香りが漂ってくる。
嫌になるくらいに覚えがある香りに、眉間に寄りそうになる皺を忍耐力で押し
留めた。
露骨な唇の痕よりも、残り香の方がよっぽどいやらしいと思う。
「先生」
「・・・」
クラス全員分のノートをまとめて持って来い、と仰せつかってその役目を果た
した。受け取ったノートに即座に目を通し始めたら、こちらの存在などもう
用ナシとばかりに呼びかける声にも応じない。
「せんせー、せんせーったら」
「・・・」
「・・・オニイサマ?」
「はい!?」
呼び方を変えた途端、即座にお返事をいただけた。
心なしか頬が上気しているのが、何とも忌々しい。
――記念日だったの。
日もとっくに昇った後にご帰宅なさった我が姉は、はにかみながら、あたしに
そう呟いた。
そして、目線で指し示すのは左手の薬指。窓から射す陽にキラリと光って、
それは的確にあたしの胸を射抜いた。
フワリと髪を揺らしてあたしの耳元で囁く。
「・・・もうすぐお兄さんができるよ」
微かに残る香りがあたしを本当に身動きできなくなるように縛り付けた。
「・・・びっくりするだろう、突然」
ギギギ、と音がするくらいぎこちなくこちらを向いたその人は困り果てたよう
に眉尻を下げている。普段はピクリとも動かない表情をここまでコロコロと変
化させる姉を、妬ましいと同時にうらやましく感じる。
分かりきっているけれど、改めて感じさせられる完敗。喉の奥まで込上げた涙
を、忌々しい香りと一緒に飲み込んだ。
「未来の妹を蔑ろにすると、後が怖いよ?」
無理矢理に上げた口角はきちんと嫌味な笑顔を作れているだろうか。
「教師たる者、昨夜の残り香を学校に持ち込まない!シャツとネクタイ変え
ればオッケーだろうなんて甘いんだよ!女子高生の嗅覚甘く見てると、
女子生徒全員にそっぽ向かれるよ?」
とどめに、朝帰り教師、と付け加えると不貞腐れるように顔を背けた。
微かに聞こえる言葉が、あたしの心を粉々に崩す。
「・・・離れ難かったんだよ・・・」
目を閉じれば今でも思い出すことができる。
先生と姉が、恋に落ちた瞬間を。
あたしを挟んで対峙した二人の目は、完全にあたしを素通りして、頑丈な鎖の
ように二人を繋いだ。
それから間もなく頻繁に嗅ぐようになった香り。
かつて姉が心酔していた小説のモチーフに使われていた香水。1000回もの
思い出を繋いでいく香り。そのとき思い知った。出会った順番なんて関係なく、
選ばれたのはあたしじゃなく、姉の方なのだと。
夕焼けが沈んで、薄紫に包まれた室内。
ソファに身を沈めた先生は、以外に幼い寝顔をしていた。
これからする事は、所謂、背徳行為なのだろうか、そんなことを纏まらない
思考の中で思う。
けれど、手に入らないと決まっているのだ。二人の思い出に忍び込む自分
勝手を一度くらい許して欲しい。たった1000分の1なのだから。
姉のメイクボックスから失敬してきたアトマイザー。
手首の静脈の上に軽く一噴き。
体温でなじませるように手首、頚動脈に刷り込む。香ってくるのはいつもの
香り。
いつもはきっちり一つに纏め上げている髪を下ろして、そのまま迷い無く
目指す。
愛しい人の唇を。
たった一度きりの思い出を欲して。